『沈黙』注釈 マーティン・スコセッシ
自分の中で少し整理されたので書いてみよう。
スコセッシの本作品は原作に忠実な作りになっていながらまた別の解釈を提示している点で意味があるように思う。ただ、その意味に賛同するかしないかはかなり評価が割れるところだろう。遠藤周作の原作に於いて文字通り「藪の中」であった結末部分が、今回かなりはっきりとした形で決着がつけられていることはとても重要なことで、その曖昧さに積極的な価値を見出していた者にとってはあんまり面白くないかもしれない。
物語の前半で日本に這う這うの体で辿り着いた主人公・ロドリゴらが隠れ切支丹の村人らに匿われ、食事を与えられるシークエンスがある。飢餓状態にあるロドリゴたちは木の枝みたいな粗末な食べ物を夢中でほおばるが、村人たちが食前の祈りを捧げているのに気付き慌てて食べ物を口から出し、ばつが悪そうに指を組む。
けれど、神父より真摯に教えを守る彼らの行動そのものが、カトリックの正当な教えよりくるものでははなく、「苦しい現世を耐え、祈り続け、その末に死んだのならぱらいそ(天国)へいける」という日本で独自に変容した誤った教理によるものだという点がロドリゴの信念を揺らす。
そのような「オリジナルよりコピーのほうがむしろ本物のように見える」というテーマから私はこの映画を見た。その意味では最後までロドリゴは折れていなかったとする物語が語る解釈に賛同するし、むしろロドリゴは巧妙に日本で抵抗するやり方を学んだのだとさえ思える。
しかし、日本人が作ったロザリオは彼の死とともに燃えてしまった。
夢日記
夢を見た。
病院にいた。いや、運ばれた。輸送されたのだ。
寝る前の習慣として、部屋でデルモンテのトマトジュースをラッパ飲みしていると、突然舌がもつれ、足が痺れ、目の前がぐるぐるとする。地球が回っている。ガリレオ以来の地動説。
そういうわけで部屋でぶっ倒れていると、借金取りがやって来た。
「俺はあんたの身ぐるみを剥ぎ、一文無しにするつもりでいるが、命まで取る気はねぇ。何せ、あんたがおっ死んじまったら誰が金を稼いで俺に払ってくれるんだ?」
まったくもってその通りだ、と僕は思った。
借金取りは親切にも病院まで僕を送ってくれる。
後は勝手にやりな、と車内から足で蹴り飛ばされ、僕は冷たいアスファルトに這い蹲ったまま頭上から排気ガスを浴びて、それで車が去っていくことを知る。ブロルロルロロロ……
ひどい気分だ。神経という神経がいったん全て解され、ばらばらになった後にまた戻すのは面倒くさいからこんがらがってめちゃくちゃになったまま、身体に押し込まれたみたいだ。
ふらふらしたまま、あちらこちらの壁にがつんがつんとぶつかりながらなんとか受付まで辿り着く。
あの、とても気分が悪いんです。
トマトジュース…飲んでて、借金取りのおじさんが排気ガスを吹きかけたからこんなひどいにおいがするので、別に生来ってわけじゃなくて…、いや、この格好はこれから寝ようと思ってたので、病院に来るって分かってたなら僕だってスーツにネクタイをちゃんと締めて恥ずかしくない格好で……借金!?借金は無いです。借金なんて借りを他人に作るわけないじゃないですか。あの人はきっと頭がおかしいんです、だって彼には毎月お金を払ってはいるけれど、それは家賃みたいなもので、生きる為には毎月定額で金銭を支払わなければいけないでしょう?ケータイだってそうじゃないですか。それは存在し続ける為に仕方なく払わなければいけない場代みたいなもんです。お姉さん、ポーカーはやりますか?……やらない?あのね、僕もポーカーはやりませんけど、つーかギャンブル自体やりませんけど、アンティのルールは守っているつもりですよ。つまり場代です。…あれ?僕はさっきもこんなこと言いませんでした?そんなことはどうでもいいんですが、さっきからお姉さん、左手の指でカウンターの裏側の何かを連打してませんか?知ってますよそれ、あはは、スイッチだ。あまり心地よくない場所に僕を連れて行ってくれる屈強な人たちを呼び出すための。まぁ、構いませんよ。神経がぐちゃぐちゃのままフラフラしてる今・ここより悪い場所なんてないんだから。
それで思い出しました。ひどく気分が悪いんです。入院させてくれませんか?
「駄目です」
「あなたは見る限り病人として失格しています。普通の病人はデルモンテのトマトジュースで気分を悪くしたりしませんし、とても穏やかでお医者さまの言葉に従い、症状の改善に努めています。しかし、あなたはデルモンテのトマトジュースで気分を悪くするくせに、お医者さまなどはなから信じていませんし、第一あなたはあなた自身の症状と悪い仲間のように厚かましく付き合っています。なんて恥知らずなんでしょう。そんな最低の関係でありながらちょっとコントロールができなくなると、こちら側にすり寄ってくるのもいっそう汚らわしい。あなたはそちら側から一歩も出ずに腐ってゆくのがせめてもの礼儀だと思います。私が人を呼んだのはあなたをどこかへ連れていくためではなく、あなたをここから追い出すためです。分かりましたか?では早く消えなさい」
まったくもってその通りだ、と僕は思った。
早く帰らないと。
でも、自分の部屋って何処にあったんだっけ?よく思い出せない。
病院から出て、数歩もしないうちにまたバチン!と神経が弾ける音がして頭の中がぐるりと一回転。脳動説。頭蓋の中で脳みそが回っている。気づくと僕はまたぶっ倒れている。ガサガサって音と、首回りがちくちくするので、植込みか何かに倒れ込んだのだと気づく。
頭上には澄んだ空気と満天の星空。
まったく、仰向けで本当によかった。
瓶詰の手紙
(ガタガタと物を動かす音)
ハロー、聞こえますか?
(ガタガタ)
ハロー、ハロー。始めまして。
突然こんなカセットテープを女性に送り付けるなんて、怪しい人間だとお思いでしょう。でも、どうか安心してください。あなたの確信は間違っていません、事実、私はあなたの考える怪しい人間の定義から一ミリもズレてはいないのです、哀しいことに。そしてその定義にのっとって私はあなたにメッセージを送ろうとしています。
とはいえ、住所も名前も書いていない封筒の封を開け、あなたはこれを再生しています。だから、あなたにはいつでもテープを停止する権利がありますし、私も口を閉ざされるまでは喋りつづける権利があるわけです。それはとてもフェアーじゃありませんか?アハハ。
かといって、私は好き勝手に喋ろうと思ってるわけではありません。好き勝手に喋ってもいいけど、あなたが途中で飽きてしまってカチリとテープを止めてしまうことを私は何より恐れるからです。実際のところ、それは私には分からないのですが、途中でテープを止められるような恐れのある言葉をなるべく用いないことは、文章にとって良い効果をもたらすと思います。……しかし、効用などどうでもいいことじゃありませんか?
少し話疲れました。私はもともと話すことが苦手でもなく、さりとて得意でもなく、中途半端な位置にいるおかげで必要以上に話して恥をかくことがあります。そうなると、伝えたいことは消えてしまって余計なことばかりが頭に浮かぶので、仕方なくそれらをいかに本筋にこじつけるかということに注力する羽目になります。ブラブラブラ……
煙草を吸います。
(マッチを擦る音)
ふー。
……よくこんな夢を見ます。
朝起きると、ふかふかのダブルベッドに自分はいて、隣にはあなたがクウクウと眠っています。
毛布をかぶり、隣で寝息を立てているあなたに私は少し驚き、じっと眺めて、なんとなく髪の毛を触り、生え際を確かめてようやく自分以外の人間がそこに生きているということを実感します。眉毛を触り、皮膚を撫でて、その下の血の温かさにじっとしたまま何かを感じます。あなたは下着一枚でどうにも寒そうなので、私はベッドから抜け出た後、首まで毛布をかけなおします。とうに暖房が切れた室内はよく冷えていて、私は暖房をつけなおし、少し考えた後、窓を開けて朝の空気を取り込みました。
昇り始めた日光が網膜を焼いて、僅かな時間たち眩んでしまいます。
気付くと背後でカンカンとハイヒールを鳴らす音がして、あわただしくあなたは家から出てゆきました。私もいつの間にかスーツに着替えネクタイをしていて、左手にはめた時計を見るともう遅刻ギリギリの時間になっていて慌てて革靴を履いて、会社に向かいます。
それだけです。
これが私が見る夢のすべてです。
もう一本煙草を吸います。
(マッチを擦る音)
この夢は意味不明です。見ている自分ですらそう思うんですから、……いや、お医者さんが丁寧に分析してくだされば何か首尾一貫した解釈を与えてくれるのかもしれません。ハハ。
だとしても、私は薬が嫌いですし、自分の内臓を他人に丁寧に調べられるくらいならいっそ自分で腹を裂くでしょう。一つ言えることは、医学的見地からはこの夢の解決は決してされないだろうということです。
さらに、私はあなたに物語ることでこの夢と折り合いをつけたいと願っているのです。
願っている?
よく分からない話がさらに分からなくなりました。
率直に言えば、私はあなたと夢のように一緒に寝たいのです。そして、あなたが凍える前に、毛布をかけなおし、暖房をつけて、朝の空気を取り込んであげたい。
しかし、それと同時に、そこにいたくないのです。
あなたが寝ている時にパキスタンで目覚め、ニューギニアで鰐かなんかを狩り、シベリアで生魚を頭から喰って、ニューヨークで100万ドルの夜景を観ながら眠りにつきたい。
私は「そこ」にいたいし、同時に「ここ」にもいたいのです。分かりますか?
(30秒の沈黙)
私はここまで話してみて、非常に落胆しています。大切に温めたガチョウの卵からヒヨコが孵ってしまったみたいにみじめな気分です。
やはり、話すべきではなかった。
(ガタガタ)
最後まで聞いてくれてありがとう。
どうか、あなたが望み、そして安らぐ場所が1つでありますように。心から祈っています。
それでは。
(ガタガタ)
(テープが止まる音)
歯を抜いた話
ただ生きていくだけで、何かが失われてゆく実感がある。
歯を抜いた。
親知らずがかなり歯肉を圧迫していて、日常生活に支障をきたすほどの激痛に悩まされていたので、思い切って歯医者に行ったところ、伊東四朗みたいな顔をした歯医者は口の中をささっと見た後呟くように提案する。「抜きましょう」
いきなり、抜きましょうと言われて、はい分かりましたと答えるほど腹も座っておらず、少しばかり抵抗をしたものの、痛みからの解放という誘惑と、伊東四朗の歯科学的見地トークに敗れ、結局抜くことになった。
そこから先は早い。小型の掃除機みたいなものと、レンチみたいな器具でゴリゴリされて、親知らずは抜かれた。抜いた後に見せられた親知らずは地獄的な色をしたカルシウムであり、かつて自分の一部だったと想像もできないただのモノだった。そして、抜いた歯を患者に見せるサービス精神はいらないとも思った。叔父が焼けた時、火葬場で喉仏の焼け残った骨を見せられて、なんとも厭な気分になったものだが、自分の骨を見るのはもっと厭なものだな。
歯が抜けると両側の歯のバランスが崩れ、噛み合わせに影響すると脅され、その後、抜けた歯にインプラントをするかしないかの流れになりかけたが、ひとまず断って帰路についた。
親知らずは痛かったし、それを抜くことは当然のことだと今も思っているに関わらず、なんだかとても虚しく、取り返しのつかないことをしたような気がして、やれない。
代替不可能性という言葉がぐるぐると頭の中を巡っている。
インプラントで新しい歯を手に入れて、それでこの欠如が埋まるのか。自分に疑問を抱いてしまっているし、そもそも歯を抜く選択が本当に自分で選んだ事なのかすら分からない。
とっくに紅葉は終わり、茶に染まった葉っぱを踏みしめるたび足元がぎゅっと鳴る。
ぼくは立ち止まって、枯れ葉を一掴み拾い、風にのせて投げた。
「君の名は。」と「街の灯」
府中に行ってきた。
男二人でというだけでも絶望的な臭いがするが、当初行く予定だったボートレースが興業しておらず、代案として打ち出した競馬も休みということで、いよいよ我々は酒を飲むくらいしかやることがなくなった。
酒を飲む?午後一時から?
教養とは時間の潰し方が上手いことだと、確か中島らもが言っていたように思うが、無教養な我々は府中の路上に立ち尽くし、面白くなさそうに煙草を吸ったり吐いたりしている。
新海誠作品は「秒速5センチメートル」を観たことがあり、その時はあまり面白く思わなかった。ただ、透き通って大きく広がった空と雲、光の線などはとても印象に残った。
「君の名は。」では、まず意識の入れ替わりが起き、「男の中に入った女」と「女の中に入った男」のドタバタをコメディカルに見せてくれる。
男性のように股を開いて座る三葉や、女性らしく内股で座る瀧の絵は入れ替わりものでは鉄板であるとはいえ笑いを誘う。
バイト先のあこがれの先輩とデートをした時点で既に瀧と三葉が惹かれあっているところは、やや展開が早すぎないか?と思ったけど、よく考えたら手も握らせてくれない女性とおっぱいを好きなだけ眺めたり触ったりさせてくれる女性、健全な男子高生がどちらに惹かれるか。後者に決まってる。
三葉は「来世は東京のイケメン男子にしてくださああああい!!」と叫ぶが、彼女の中では東京>地元、男性>女性の2つの対立軸が存在していて、元々持つ東京への憧れを瀧への気持ちだと勘違いしたと読んだ。とはいえ、きっかけなんて些細なもので特に重要ではない。大事なのは持続力だ。
同じ秘密を共有することもその一つであっただろうし、一番の決め手はバイト先の先輩こと家寺さん(一番かわいかったと思う)との仲立ちを行ったことだと思っている。
まぁ、そんなことはどうでもいい。
そこからさらに二転三転あって、最後に二人はお互いの名前と記憶を忘れながら成長してゆき、瀧は自分でもわからない誰かを探しながら生きてゆく。
そこで何らかの奇跡が働いて、二人はまた巡り合い、物語はハッピーエンドを迎える。
私は、何となくチャップリンの「街の灯」のラストシーンを思い出した。
「あなたなの?」「目が見えるんですか?「ええ、見えますわ」
二人は顔を見合わせる。チャップリンは複雑に、微かな笑顔を作りジ・エンド。
はっきり言ってこれはめでたしめでたしで終わるハッピーエンドではない。ダスティ・ホフマンの「卒業」もそうだけれど、「で?出会ったはいいけれど今後どうすんの?」というシビアな問題が潜んでいる。盲目ゆえに浮浪者を「足長おじさん」のような金持ちの紳士だと思っていた娘は、目の前の前科がある薄汚い浮浪者を過去のように慕うことができるだろうか?
浮浪者だってそうだ。盲目で貧乏だった娘を愛するように金持ちで目が見えるようになった娘を愛せるだろうか?むしろ、浮浪者の慈愛は「盲目」と「貧乏」にこそ向けられたものではなかったか?
「君の名は。」の話だった。
そんなわけで、瀧がいかに三葉への気持ちを大切にしていて、立ち止まっていたとしても、「あのころの三葉」を愛したように「現在の三葉」を愛せるのだろうか?
作中から推測すると、三葉は瀧より3歳年上で物語の終わりでは25歳のはずだ。四年制大学を卒業したとしても社会人3年目。様々なものが「あのころの三葉」とは異なっているだろう。
東京に住み、生活をしているであろう現在の三葉は「あのころの瀧」を愛したかもしれないが、「現在の瀧」を愛するかどうかは分からない。なぜなら、出会ったその先は描かれずに終わるから。
最後に私の「その先」に対する解釈を語って終わろう。
生きるためには変らずにはいられない。過去にあったものはもろくも崩れるが、同時にそれは新しいものを創る絶好の機会でもある。
立ち止まっているはずの瀧が、制服を脱ぎ、慣れないスーツを着て、就活をしていたように。