アビリーンへの逃避行

痙攣的な日記録 あるいは感想文

「君の名は。」と「街の灯」

府中に行ってきた。

男二人でというだけでも絶望的な臭いがするが、当初行く予定だったボートレースが興業しておらず、代案として打ち出した競馬も休みということで、いよいよ我々は酒を飲むくらいしかやることがなくなった。

酒を飲む?午後一時から?

教養とは時間の潰し方が上手いことだと、確か中島らもが言っていたように思うが、無教養な我々は府中の路上に立ち尽くし、面白くなさそうに煙草を吸ったり吐いたりしている。

そういうわけで、新海誠君の名は。』を見てきた。

新海誠作品は「秒速5センチメートル」を観たことがあり、その時はあまり面白く思わなかった。ただ、透き通って大きく広がった空と雲、光の線などはとても印象に残った。

君の名は。」では、まず意識の入れ替わりが起き、「男の中に入った女」と「女の中に入った男」のドタバタをコメディカルに見せてくれる。

男性のように股を開いて座る三葉や、女性らしく内股で座る瀧の絵は入れ替わりものでは鉄板であるとはいえ笑いを誘う。

バイト先のあこがれの先輩とデートをした時点で既に瀧と三葉が惹かれあっているところは、やや展開が早すぎないか?と思ったけど、よく考えたら手も握らせてくれない女性とおっぱいを好きなだけ眺めたり触ったりさせてくれる女性、健全な男子高生がどちらに惹かれるか。後者に決まってる。

三葉は「来世は東京のイケメン男子にしてくださああああい!!」と叫ぶが、彼女の中では東京>地元、男性>女性の2つの対立軸が存在していて、元々持つ東京への憧れを瀧への気持ちだと勘違いしたと読んだ。とはいえ、きっかけなんて些細なもので特に重要ではない。大事なのは持続力だ。

同じ秘密を共有することもその一つであっただろうし、一番の決め手はバイト先の先輩こと家寺さん(一番かわいかったと思う)との仲立ちを行ったことだと思っている。

まぁ、そんなことはどうでもいい。

そこからさらに二転三転あって、最後に二人はお互いの名前と記憶を忘れながら成長してゆき、瀧は自分でもわからない誰かを探しながら生きてゆく。

そこで何らかの奇跡が働いて、二人はまた巡り合い、物語はハッピーエンドを迎える。

私は、何となくチャップリンの「街の灯」のラストシーンを思い出した。

「あなたなの?」「目が見えるんですか?「ええ、見えますわ」

二人は顔を見合わせる。チャップリンは複雑に、微かな笑顔を作りジ・エンド。

はっきり言ってこれはめでたしめでたしで終わるハッピーエンドではない。ダスティ・ホフマンの「卒業」もそうだけれど、「で?出会ったはいいけれど今後どうすんの?」というシビアな問題が潜んでいる。盲目ゆえに浮浪者を「足長おじさん」のような金持ちの紳士だと思っていた娘は、目の前の前科がある薄汚い浮浪者を過去のように慕うことができるだろうか?

浮浪者だってそうだ。盲目で貧乏だった娘を愛するように金持ちで目が見えるようになった娘を愛せるだろうか?むしろ、浮浪者の慈愛は「盲目」と「貧乏」にこそ向けられたものではなかったか?

君の名は。」の話だった。

そんなわけで、瀧がいかに三葉への気持ちを大切にしていて、立ち止まっていたとしても、「あのころの三葉」を愛したように「現在の三葉」を愛せるのだろうか?

作中から推測すると、三葉は瀧より3歳年上で物語の終わりでは25歳のはずだ。四年制大学を卒業したとしても社会人3年目。様々なものが「あのころの三葉」とは異なっているだろう。

東京に住み、生活をしているであろう現在の三葉は「あのころの瀧」を愛したかもしれないが、「現在の瀧」を愛するかどうかは分からない。なぜなら、出会ったその先は描かれずに終わるから。

最後に私の「その先」に対する解釈を語って終わろう。

生きるためには変らずにはいられない。過去にあったものはもろくも崩れるが、同時にそれは新しいものを創る絶好の機会でもある。

立ち止まっているはずの瀧が、制服を脱ぎ、慣れないスーツを着て、就活をしていたように。

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