アビリーンへの逃避行

痙攣的な日記録 あるいは感想文

『沈黙』注釈 マーティン・スコセッシ

自分の中で少し整理されたので書いてみよう。

 

スコセッシの本作品は原作に忠実な作りになっていながらまた別の解釈を提示している点で意味があるように思う。ただ、その意味に賛同するかしないかはかなり評価が割れるところだろう。遠藤周作の原作に於いて文字通り「藪の中」であった結末部分が、今回かなりはっきりとした形で決着がつけられていることはとても重要なことで、その曖昧さに積極的な価値を見出していた者にとってはあんまり面白くないかもしれない。

物語の前半で日本に這う這うの体で辿り着いた主人公・ロドリゴらが隠れ切支丹の村人らに匿われ、食事を与えられるシークエンスがある。飢餓状態にあるロドリゴたちは木の枝みたいな粗末な食べ物を夢中でほおばるが、村人たちが食前の祈りを捧げているのに気付き慌てて食べ物を口から出し、ばつが悪そうに指を組む。

けれど、神父より真摯に教えを守る彼らの行動そのものが、カトリックの正当な教えよりくるものでははなく、「苦しい現世を耐え、祈り続け、その末に死んだのならぱらいそ(天国)へいける」という日本で独自に変容した誤った教理によるものだという点がロドリゴの信念を揺らす。

そのような「オリジナルよりコピーのほうがむしろ本物のように見える」というテーマから私はこの映画を見た。その意味では最後までロドリゴは折れていなかったとする物語が語る解釈に賛同するし、むしろロドリゴは巧妙に日本で抵抗するやり方を学んだのだとさえ思える。

しかし、日本人が作ったロザリオは彼の死とともに燃えてしまった。